キーパーソン1:倉敷天文台の創設者

 原 澄 治 (はら すみじ) 1878年7月23日 - 1968年1月4日


原 澄 治
 実業家として、倉敷紡績(現在のクラボウ)取締役、相談役、中国民報社(現在の山陽新聞社)役員などを務め、大原孫三郎とともに実業界で活躍したほか、1918年(大正7年)から1923年(大正12年)までは倉敷町長も歴任した。倉敷市名誉市民。
 1926年(大正15年)、日本初の民間天文台、倉敷天文台を私財を投じて設立。イギリスから輸入した中古の32cm反射望遠鏡(市指定重要文化財)が設置されたが、これは当時、国内最大級だった。
 既設の天文台はすべて官営で、限られた学者しか使えなかった時代、民衆のために開かれた倉敷天文台の設立は日本の天文学の歴史において画期的なものであった。

キーパーソン2:倉敷天文台で活躍した天体観測家の巨人

 本 田 實 (ほんだ みのる)1913年2月26日 - 1990年8月26日


本 田 實
 生涯に彗星12個、新星11個を発見したアマチュア天文家。鳥取県八頭郡八東村(現八頭町)出身。
 1930年ごろ、東京天文台の神田茂著『彗星の話』を読んで、彗星捜索を決意。京都大学の花山天文台長・山本一清の指導を受け、黄道光観測所(広島県福山市)の観測員を経て、倉敷天文台で活躍した。
 倉敷の街が明るくなり、新天体発見が困難になったため、1981年7月、賀陽町(現吉備中央町)に私費で建設した観測所を「星尋山荘(せいじんさんそう)」と名付け、観測活動の拠点を移した。星尋山荘で通算1453回目の観測を行った2日後の1990年8月26日永眠。その後、倉敷市名誉市民に選定された。 ※ 賀陽町の観測所は「倉敷天文台賀陽分室」の表札を掲げてもいました

① 一般に開かれた天文台をめざして 岡山に天文台を設置せよ


創立当時の倉敷天文台観測室
 1910年代、大正時代の末期になると、日本でも天文学に関する関心が深まり、天文台に勤務し研究に従事する職業天文学者のほかに、熱心なアマチュア天文家が現れ始めます。その一人が、岡山商業学校の地理(当時の天文は地理に含まれていた)教諭であった水野千里です。水野は、大正10年2月4日から3日間に渡って山陽新報に『天文台 岡山に設置せよ』という論文記事を掲載し民間に開かれた施設の設置を訴えます。「天文学の発展のためには、専門家でなくても天体観察ができる天文台が必要」だとする主張は、倉敷天文台の設立理念の一つとなりました。

② 日本初の民間天文台・倉敷天文台


 日本でそれまで設立された天文台は、東京天文台を始めとする官立の天文台で、特定の研究者だけにしか使用を許されない状況でした。
 "晴天率の高い岡山に天文台を"という水野千里の運動は、天文学の普及と観測者育成に心血を注いだ京都大学教授・山本一清博士の後押しもあり、民衆のための天文台の必要性に啓発された当時の倉敷紡績の専務・原 澄治(倉敷市名誉市民)の出資により、1926年(大正15年)11月21日、倉敷天文台が設立されることとなりました。
 
東宮殿下(昭和天皇)行啓記念に天文台を設置することを伝える新聞記事(大正5年4月11日中国民報)(右画像)
 
天文同好会岡山支部では東宮殿下行啓記念として天文台を建設することとなり京大教授山本理学博士の来岡を機会に9日倉敷町で講演会を開催したがその際同町の原澄治氏が32センチ反射望遠鏡(代価一千余円)を寄付することになったのでいよいよ、記念天文台は都窪郡倉敷町に建設することに決定した。多分本年10月火星接近迄には竣工をみるであらう。

③ 官立の天文台に並ぶ第一級の観測施設


移設前の倉敷天文台スライディングルーフ観測室
 倉敷天文台は現在の倉敷市中央に設置されました。昭和30年代までの倉敷は、中心部でも天の川がくっきり見えるほどの星空環境が残っていたといわれます。
 東西4.4m,南北5.3mの平面規模で,鉄板張の切妻屋根を東西に滑らせて開閉することにより、天空を広く開放して、見晴らしのよい観測空間となるのが最大の特徴です。基礎はレンガづくりで1.1mと高く、上部は下見板張りとし、震動が大敵な望遠鏡の基礎は別に独立して造られています。科学史上においても貴重なものです。
 開き屋根を開閉する力を軽減させるために,屋根の重さに合わせた錘が1つずつ吊り下げてバランスを取る,合理的な開閉方式が採用されています。
 雨対策は,屋根の真ん中部分が重なり合うように,金属板で簡単に加工されているだけです。にもかかわらず,雨漏りの形跡がありません。設計・施工時の優れた精度を今もなお保っています。

④ 当時 国内最大級32cm反射望遠鏡


設立当時の32センチ反射望遠鏡
 設立当時に設置されたイギリス製カルバー研磨(ホルランド社製)32センチ反射望遠鏡は、日本国内では一目置かれる第一級の機器でした。イギリス用に設計されているため、日本の緯度で使うにあたり傾けた土台に設置する必要がありました。1976年までスライディングルーフ観測室に設置。現在は倉敷市の文化財に指定されており、倉敷天文台「原澄治・本田實記念館」にて展示されています。
 倉敷天文台は設備規模と観測実績において、その後の日本の天文学界で大きな存在感を発揮していくことになります。
 
大正15年(1926年)11月26日 日本で最初の民間天文台として倉敷天文台が発足
昭和 6年(1931年)荒木健児・・・黄道光および月面研究
  10年(1935年)小山秋雄・・・変光星研究
  14年(1939年)岡林滋樹・・・岡林・ハセル彗星発見
         本田 實 ・・・彗星12個、新星11個(生涯発見数)
  25年(1950年)第六管区海上保安部笠岡水路観測所倉敷分室設置
  41年(1966年)32cmカルバー反射鏡 第六管区海上保安部より返還される
  51年(1976年)反射赤道儀望遠鏡 第六管区海上保安部より返還される
平成12年(2000年)32cmカルバー反射望遠鏡「倉敷市指定文化財」に登録される

⑤ 世界に名が知られた新天体発見王・本田實の活躍


 倉敷天文台の名を一般の人々に知らしめしたのは、岡林滋樹と本田實による新彗星発見による功績が大きいといえます。特に本田は戦後、新彗星を次々と発見し、暗く沈んだ日本に明るい話題を提供したことで全国から注目を集める存在となりました。本田が生涯に発見した彗星は12個、新星は11個。これは当時、現役の世界最多であり、本田と倉敷天文台の活躍は、世界の天文界にも広く紹介されています。
 平成2年、数々の新天体の発見、および天文学の発展と普及に貢献した功績により、本田實は倉敷市名誉市民に選定されました。
 画像は、昭和22年から23年にかけて、およそ1年の間にたて続けに3つの新彗星を発見した本田の活躍を伝える新聞記事。

⑥ 平成25年8月 観測室はライフパーク倉敷に移築


ライフパーク倉敷に移築された観測室
 平成25年倉敷天文台の施設改築に伴い、文化財登録されている観測室は、ライフパーク倉敷の敷地内にて、倉敷科学センターの屋外展示として保存および天文教育活動に活用することとなりました。
 天体観測室としての機能的な側面も含めて保存するため、移築に当たっては単に元の姿を復元するだけでなく、老朽化対策の補修や建屋を設置する方位(正面が北を向く)、望遠鏡を据える独立基礎など、建物の構造についても考慮されています。